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熊本地方裁判所 昭和33年(む)673号 判決 1958年7月14日

被告人 野村亨 外一名

(被告人氏名)(略)

右両名に対する公務執行妨害、傷害被告事件につき、弁護人坂本泰良、同諫山博、同野田宗典及び同西島春雄から当裁判所の裁判官裁判長渡辺利通、裁判官衛藤善人、裁判官藤光巧に対し、忌避の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件忌避の申立は、これを却下する。

理由

弁護人等の本件忌避の申立の理由の要旨は、元来、裁判官は良心に従つて裁判しなくてはならないこと憲法第七六条第三項の規定によつて明らかである。しかして、刑事訴訟法第一条によれば、刑事裁判は、被告人の基本的人権を守るという立場からされねばならない。そうでなければ、被告人の憲法第三二条によつて保障された裁判を受けるの権利は危たいにひんするからである。

しかるに裁判官裁判長渡辺利通、裁判官衛藤善人、裁判官藤光巧の三名をもつて構成された裁判所(以下単に原裁判所と略称する)は、検察官が証拠として取調請求をした検察官作成の実況見分調書(証第一八号)、医師平野竜太郎作成の診断書(証第二五号)、永村四郎、小旗吉雄、境政継、森田等及び曾我三男の検察官に対する各供述調書(証第一九号乃至第二三号、第四二号)並びに沢田実之の司法警察員に対する供述調書(証第二四号)を、弁護人の不同意あるにかかわらず証拠決定したものである。ところで、刑事訴訟法第三二一条第一項第二号及び第三号の規定は、いわゆる特信性の問題で証拠能力に関する規定であるから、裁判所としては、まず、その証拠能力の有無を診断した後でなければ、これが証拠決定はできない筋合である。しかるに、原裁判所は、前掲各証拠についてはその証拠能力の有無に関し何等審査するところはなく、かつ、弁護人側の任意性がない旨の主張に対しても、同法第三二五条に基く調査をしないまま証拠決定をしている。それで、原裁判所の右手続は、刑事訴訟法第三二一条第一項第二号、第三号及び第三二五条の規定に違反するものといわなくてはならない。

次に被告人野村亨の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書(証第三二号乃至第三五号)及び被告人浜田保の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書(証第三六号乃至第三九号)に対しても、これが証拠決定をするにあたつては、その特信性乃至任意性を確めた上で決定しなくてはならない。しかるに原裁判所は右各供述調書についても特信性乃至任意性を調査した形跡は存在しない。しかして、元来、自白調書については、犯罪事実に関する他の証拠が取り調べられた後でなければ、その取調請求をすることができないことになつている。しかるに、本件においては、犯罪事実に関する他の証拠は全部の取調が終了してはいない。それにもかかわらず、原裁判所は右各自白調書についての証拠調請求に対し、これが証拠決定をしている。それで、原裁判所の右手続は刑事訴訟法第三〇一条、第三二二条、第三二五条の規定に違反するものである。

そこで、弁護人等は前掲証第一八号乃至第二五号、第三二号乃至第三九号及び第四二号の証拠決定に対し異議の申立をしたが、原裁判所は右異議申立棄却の決定をした。これは、とりもなおさず、原裁判所の裁判官裁判長渡辺利通、裁判官衛藤善人、裁判官藤光巧が、被告人等の基本的人権を守るという立場をとらず、良心に従つた裁判をするものとは認められないから、結局、右裁判官三名は、本件につき不公平な裁判をするおそれがあるものと思料し、ここに、被告人等のため、本件忌避の申立をする次第である。というのである。

よつて、当裁判所は、次のとおり判断する。

第一、検察官作成の実況見分調書(証第一八号)及び医師平野竜太郎作成の診断書(証第二五号)について。

まず、検察官作成の実況見分調書について調べてみれば、右調書は原裁判所の第七回公判期日において、その作成者である水之江国義検事が証人として尋問を受け、その真正に作成されるものであることを供述していることが明らかである。してみれば、右調書は、刑事訴訟法第三二一条第三項の規定の類推適用により、その証拠能力のあること多言を要しないところである。しかして、被疑者は検察官の実況見分に際し、これに立ち会わせることはできるが、必ずしも常に立ち会わせる機会を与えなくてはならないものではない。それで、本件実況見分に際し、検察官が被告人等に立ち会いの機会を与えなかつたとしても、その一事をもつて、直ちに右調書の証拠能力を否定し去るわけにはゆかない。

次に、医師作成の診断書についても、刑事訴訟法第三二一条第四項の規定を類推適用して、その作成者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成されたものであることを供述すれば、証拠能力があるというべきである。しかして、右証第二五号の診断書の作成者である医師平野竜太郎は、原裁判所の第九回公判期日において、証人として尋問を受け、右診断書は真正に作成されたものであることを供述していることが認められるので、その証拠能力のあることは勿論である。

されば、原裁判所が右各作成者を公判期日において証人として尋問し、その真正に作成されたことを確めた上、証拠決定をしたのは相当であるから、原裁判所の右適法な手続に対する弁護人の非難は当を得ないものというべきである。

第二、永村四郎(二通)、小旗吉雄、境政継、森田等及び曾我(旧姓東)三男の検察官に対する各供述調書(証第一九号乃至第二三号、第四二号)並びに沢田実之の司法警察員に対する供述調書(証第二四号)について。

記録を調べてみれば、永村四郎及び小旗吉雄は原裁判所の第五及び第六回の各公判期日において、境政継は同第六回公判期日において、森田等は同第七回公判期日において、曾我三郎は同第一〇回公判期日において、それぞれ証人として尋問を受けたところ、検察官は同第一〇回公判期日において、右証人等の公判期日においてなした各供述は、前に検察官の面前における供述と相反するか若しくは実質的に異なる旨を主張し、刑事訴訟法第三二一条第一項第二号の規定に基き、検察官に対する右各供述調書の取調請求をしたのに対し、原裁判所は検察官の右主張並びに弁護人の意見を聴いた上、右各供述調書に対する証拠決定をしたことが認められる。

ところで、被告人以外の者の供述について、その任意性が証拠能力の要件であるかどうかについては、法律が「供述を信用すべき特別の情況」を要求していない場合には、当然に、供述が任意にされたことを要求しているものと解すべきであるが、しかし、それ以外の場合は、すべて任意性を要件としているものとは考えることはできない。

してみると、刑事訴訟法第三二一条第一項第二号所定の場合には「供述を信用すべき特別の情況」を要求しているから、この場合には必ずしも任意性を証拠能力の要件としたものではないと解すべきである。さすれば、「供述を信用すべき特別の情況」の問題は結局、証拠能力の問題ではなく、証明力の問題として証拠価値判断の資料たるに過ぎないとみるべきが相当である。

しかして、その「供述を信用すべき特別の情況」は、必ずしも、外部的な特別の事情によらなくとも、その供述の内容自体によつて判断することができるものと解するから(昭和二九年(あ)第一、一六四号、昭和三〇年一月一一日第三小法廷判決参照)、その調査の資料並びに方法については、特別の立証を要するものではない。訴訟進行の段階におけるすべての情況即ちその供述調書の形式的内容をはじめ、供述者の弁解、態度、供述時期その他記録に現われている一切の事情を参酌し、裁判所の適当と思料する資料並びに方法に基いて判断を下しても一向差支ないものというべきである。

そこで、今、所論の各供述調書中の各供述が、前掲公判期日における供述よりも「信用すべき特別の情況」が存するかどうかについて検討する。

まず、原裁判所の第五、第六回の各公判期日における証人永村四郎及び同小旗吉雄の各供述によると、同人等は、いずれも、検察官の面前においては当時の記憶に基き述べたものであり、嘘を言つた覚えはない旨供述しているし、右両名の検察官に対する前掲各供述調書を調べてみれば、その取り調べは本件に接着した時期においてなされ、同供述調書には右各供述者の署名及び押印があり、その各供述の内容自体と、原裁判所の第五、第六回の公判期日における右両名の各供述とを比照してみれば、右両名はその間、少なくとも実質的に異なつた供述をしていることが認められる。さすれば、右永村四郎及び小旗吉雄の検察官に対する供述は、前掲公判期日における供述よりも「信用すべき特別の情況」の存する場合にあたるものとみるのが相当である。

次に証人として尋問を受けた境政継の第六回、同じ森田等の第七回、同じ曾我三郎の第一〇回各公判期日における各供述によれば、同人等は、いずれも被告人等と同様国鉄労働組合の組合員であるが、右各公判期日においては、同人等は被告人両名並びに他の組合員等の面前でそれぞれ供述したことが窺い得られるところ、かような場合、同人等が所論のように証人として宣誓の上供述したとしても、必ずしも自由な心境のもとに供述したものとは断言し得ないところである。却つて、検察官の面前においての方が供述し易しかつたとも思料されないでもない。しかして、右三名の検察官に対する各供述調書を調べてみれば、同供述調書は録取後同人等に読み聞けたところ、同人等はいずれも誤りがない旨を申立て、それぞれ署名及び拇印をしているし、しかも、その取り調べは本件と接着した時期においてなされている。なお、その各供述の内容自体は前後矛盾するようなところはなく、右各供述と前掲各公判期日における各供述者の供述と対比すれば、その間、少くとも実質的に異つた供述をしていることが認められる。してみれば、右三名の検察官に対する各供述も、前掲各公判期日における供述よりも「信用すべき特別の情況」の存する場合にあたるものとみるべきである。

なお、弁護人主張の曾我三男の検察官に対する供述調書については、同人が被疑者として取り調べを受け、心理的な圧迫により任意性がなく、かつ、特に信用すべき情況がない旨の点については、後記第三において、これを説示する。

更に、沢田義之の司法警察員に対する供述調書について按ずるに、原裁判所の第五回公判期日における証人永村四郎の供述によれば、沢田義之は永村四郎等の直接の上司であり、しかして、同人は昭和三一年七月頃死亡したことが認められる。ところで、同人の前記供述調書を調べてみれば、同供述調書の作成された日時は昭和三一年二月二七日であり、同人は本件発生直後現場にかけつけているから、本件事情については相当詳細に知つていた事実が認められる。しかも、同人の取り調べは本件に接着した時期になされているし、同供述調書は、同人が録取後読み聞けを受け、その誤りのないことを申立てた上署名拇印したことが認められる。してみると、右沢田義之の供述は、特に信用すべき情況のもとにされたものであることが認められ、しかも、同人は前記のとおり死亡しているから、原裁判所の公判期日において供述することができないことは明らかであり、かつ、その供述は、本件記録を調べてみると、本件犯罪事実の存否の証明に欠くることができないものであることが認められる。

さすれば、原裁判所としては、所論関係人の各供述調書について、叙上説示するところと同じ見解のもとに所定の手続を履践してこれが調査をし、その上所論証拠決定をしたことが窺い得られるから、前掲各供述調書の任意性乃至「特別に信用すべき状況」の存することは勿論である。してみると、原裁判所の所論各関係人の各供述調書に対する証拠決定は、結局相当であり、所論のような違法はないというべきである。

第三、被告人野村亨及び同浜田保の検察官に対する各供述調書(証第三二号乃至第三九号)について。

刑事訴訟法第三〇一条にいう「犯罪事実に関する他の証拠が取り調べられた後」とは、すべての補強証拠が取り調べられた後という意味ではない。それが他の証拠と同時に自白調書の取調請求をしても、自白調書よりも前に他の証拠が取り調べられた以上、右取調請求は違法ではない(昭和二五年(あ)第八六五号、第二小法廷判決参照、最高裁判所判例集第五巻第七号第一、二三二頁)。けだし、刑事訴訟法第三〇一条は被告人の自白を内容とした書面が、証拠調の当初の段階において取り調べられると裁判所としては事件に対し偏見予断を抱かしめるおそれがあるから、これを防止する趣旨の規定と解すべきである。されば、単に、右書面が犯罪事実に関する他の証拠と同時に取調が請求されただけで、現実な証拠調の手続において他の証拠を取り調べた後に、右自白の書面が取調べられる以上、毫も同条の趣旨に反しないからである。そこで、本件記録を調べてみれば、原裁判所は本件において、他の証拠を取り調べた後に被告人等の所論供述調書を取り調べる旨証拠決定をしているから、前説示するところにより、この点に関する原裁判所の証拠調の手続には何等の違法もないというべきである。

よつて、進んで所論被告人等の各供述調書の任意性の有無の調査の問題について按ずるに、検察官が同意を条件として、被告人の司法警察員並びに検察官に対する供述調書の取調請求をしたのに対し、被告人がこれを証拠とすることに同意しなかつた場合でも、裁判所としては、これが刑事訴訟法第三二二条の条件を具備するか否かに関する事項を取り調べた上、右供述調書の証拠調をすることは何等差支ないところである(昭和二八年(あ)第一、三七六号、昭和二九年一二月二四日第三小法廷判決参照)。しかして、被告人の供述調書の任意性の有無の調査は、裁判所が適当と認める方法によつてこれを行うことができ、かつ、供述調書の方式のみではなく、その供述の内容自体も右調査の資料となり得るものと解すべきである(昭和二六年(あ)第一、二九五号、昭和二八年一〇月九日第二小法廷判決参照)。それで、被告人の供述調書の任意性の有無の調査は、必ずしも検察官にその供述の任意性についての立証をさせねばならないものではないし、また特に証人の取調によるの要はないというべきである。(前記同判例及び昭和二六年(あ)一、六五七号、昭和二八年二月一二日第一小法廷判決参照)。若し被告人の供述の任意性が疑わしいという場合殊に、強制、拷問等の事実により任意性が疑わしいとの主張であれば、その事実の立証は被告人側においてするのが相当であり、また、被告人の供述が誘導的方法乃至欺罔的方法によりなされたもので任意性がないとの主張である場合は、それ等の方法の違法性及びこれが被告人の心理に及ぼした影響が強制に準ずるものであれば、その立証も、矢張り右に準じ、また被告人側においてすべきものであると解するのが相当である。そこで、今、所論に鑑み本件記録を調べてみれば、被告人両名及び前掲曾我三郎は、いずれも逮捕、勾留されることはなく、在宅のまま司法警察員並びに検察官の取り調べを受けていることが明らかである。しかして、被告人両名及び曾我三郎の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書を調べてみると被告人両名及び曾我三郎は、本件被疑事実につき、その供述に先ち、いずれも黙否権のあることを告げられ、かつ、供述が終つた後では、録取した供述調書を読み聞けられ、またわ閲覧させられた上、誤りがない旨を申立ててそれぞれ署名、押印又は署名拇印していることが認められる。しかも、その供述調書の内容自体を検討してみるに、被告人両名及び曾我三郎が強制、拷問等を受けた形跡は勿論、強制に準ずる誘導的方法乃至欺罔的方法により供述がなされた形跡も認め得ないところである。却つて被告人等の各供述は、前後矛盾するところはなく、理路整然としているし、前記第二掲記の各関係人の供述とを比較検討してみても、その間、経験則に反するようなくいちがいがある点も発見し得ないところである。しかして、この点に関し、被告人等からは何等の主張も、その証拠調の請求もなく、ただ単に、弁護人から「特に信用すべき情況が存しないし、また、被疑者として調べられたので、心理作用もあり任意性がない」という主張だけに止まつている。してみれば、被告人等の前記各供述は、前説示する諸般の事情を参酌するといずれも、特に信用すべき情況のもとにされたものであるとみるべく、しかも、その各供述は任意にされたものでないとの疑は生じ得ないから、前記被告人等の各供述調書は、いずれも証拠能力があるものというべきである。そこで、更に、本件記録を調べてみれば、原裁判所は右説示するところと同趣旨の見解のもとに、被告人等の各供述調書の方式並びにその供述の内容自体を調査し、いずれも証拠能力があるとの結論に達し、これが証拠決定をした事実が窺い得られるので、原裁判所の右証拠決定の手続には所論のような違法はないというべきである。

果して然りとすれば、原裁判所の裁判官裁判長渡辺利通、裁判官衛藤善人、裁判官藤光巧が所論憲法乃至刑事訴訟法の規定を無視し、証拠調の違法な手続により、被告人等に対し、不公平な裁判をするおそれがあるものとは到底認め得ないところである。それで、弁護人等の本件忌避の申立は、結局、訴訟を遅延させる目的のみでされたものと解する外はないから、刑事訴訟法第二四条第一項によりこれを却下すべきである。

よつて主文のとおり決定する。

(裁判官 山下辰夫 西辻孝吉 小林優)

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